2016年10月7日 星期五

東野圭吾--昔、僕が死んだ家


「昔、僕が死んだ家」が使ってるのはいわゆる「叙述トリック」、つまり意図的に読者を誤解させるとういう事。

家の時計は全部十一時十分を指して、何もかも日常生活の様子のまま、何かがあったように家の全員揃って突然消え去った。最初はこの家は心霊スポットなんかだと思い込んでいて、見当は全然つかなかった。

少年の日記は単純に見えるけど、何度も検証してみると(多分三回四回ぐらいかな)また新しい手掛かりが出て来て、ホントに面白い!ちょっと教科書を復習しているみたいだ。小学生の日記だから漢字が少なくてちょっと読みにくいけど

手掛かりは沢山あるのに、結末は全く見極められない
まるで完成図を見ずにジグソーパズルをやっているような感じ
屋敷が墓だというアイデアはすごく良くて全体的な流れもいいと思う結末をこんなに綺麗につけて、さすが東野圭吾だ。

沙也加が子供の頃、性的に虐待されたのは予想内だけど、途中でもう一人の女の子がいった事実に紛れて忘れた。虐待と関わってる記憶が解明されるとまだびっくりさせた。でも結末は寂しすぎる、お母さん失格の沙也加は娘と離れて誰も信じたくない(主人公も)一人で生きて行く、過去を思い出しても現実は何も解決できない…それはすごく残念だと思う、読んだ後に暫く寂寥さに浸かっていた

一つ文句を言いたい、普通の人は、一人っこの息子を長男と呼ばないだろう?息子とだけ言うだろう?長男ってもともと他の子供がいる時使うでしょう?チャーミーも同じぐらい、みゃあみゃあしているちっちゃい女の子ホントにいるかな、狡い。

そして、なぜ題名は「昔、彼女が死んだ家」じゃなくて「昔、僕が死んだ家」だろう?今はまだイマイチ分からない。もしかして主人公はどんなふうにこの幻の家と絡んでるって気になってた、結果は考えすぎだった。こんなところで罠もあるのか?これにはまいった!